昭和五十四年四月四日 朝の御理解


御神訓
 懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよ。


 折角懐妊のおかげを頂いてそれが難産に終わったり流産に終わったりすることのない様なまお蔭を頂きたい。為にはここでは腹帯をするより真の帯をせよとこう。これは懐妊と云うことだけではない。云うならお蔭を解体する。ね、お蔭の元が宿る。お互いがお蔭を頂きたい。その願いが一心に願うからお蔭を下さろうとする働きが云うならば懐妊と云うことになるでしょう。ですからそれが十月十日無事安産のお蔭を頂く為にその間の養生が必要である。それにはいわゆる真の帯をせよ、信心のしっかり帯をせよとこういう事です。
 信心の帯と云うことは結局まあ真と云うことでしょう。あれもお蔭であった、これもお蔭であったと分かる様になると本当の信者、本当とは真の信者じゃとあります。
 信心の手篤いのが真の信者と云われます。そこでいわゆる本当な信者になろうと先ず思わにゃいけん。と云うことは真の信者もうそれを云うと合楽に御縁を頂いて居るのですから合楽のやはり信者さんだなと、成程合楽の信者じゃなと云う風にね、あのやはり形の上でも合楽の信者らしい信者にならにゃいかん。
 合楽のお蔭は頂き一生懸命お参りしとってもまだ婦人会にかたってない人もある。壮年部に入ってない人もある。青年会に入ってない人もある。これでは合楽の信者だとは云えないでしょう。僅かばかりの、んなら信徒会なら信徒会費ですら納めようとも思ってない人がある。これでは合楽の真の信者だとは云えませんよね。だから私は形の上からでもね、そういう事がきちっと出来なければいけない。ここでそれこそ口癖の様に云われる、日参、教聴、そして心行、家業の行、いよいよ合楽理念をマスターさして貰うてね、合楽理念に依るところの信心生活をさして貰うて神様が約束して下さる日勝り月勝り年勝りのお蔭をはっきり表して行かなきゃいけない、お蔭の上に。ね、そしてその頂いたそのお蔭の中に合楽の信者でございます、合楽の信奉者でございますと云う合楽の信者としての御用が出来なきゃならん。云うならば真を捧げて行かなければならない。ねえ、そこから云うなら次の代勝りのお蔭の約束も神様はして下さると思うんです。ね、いよいよ貧争病のない真善美に輝くそういう信心の世界を目指させて頂いての信心してこそ初めて私は合楽の信者合楽の本当の信者だと言えると思うんです。そういう事も出来ずしておいて、そしてそのお蔭は頂きたい、どうしてお蔭を受けられんだろうかと云うのはやっぱりちょっとおかしいと思うんですよね。それはまあ云うならば形も心もですけれども、せめて形の上でもそれだけの事が出来てからの事でなからなければならんと思うんです。
 私共皆さんの周囲に合楽にお参りしとるけれどもそういう事が出来てない人達の為に、なら朝参りでもなさる皆さんの場合は今私が申しました様な事はまあ出来ていると仮定致します。ならば自分の周辺に只参りだけでね、合楽に参りよると云うだけで婦人会にも入ってない壮年会にも入ってない、青年会にも入ってない、合楽に参りよると云うだけで籍を置いてない。そういう事で信心のお蔭が頂けるとか頂けないとかと云う様な事はまあおかしい、まあ云えないことだと私は思います。今申しますように合楽でもう合楽の信心これだけの事はと云うね、先ず日参、教聴、今合楽で百名余りのお日届があってお参りが出来ない遠方からですからね、遠方の方達はお参りが出来ませんから毎日お日届があっている方が百名余りあります。ね、出来んことは無いでしょうが。日参です、それはもう日参として神様が受けて下さる。毎日電話がかかって来る。お初穂をお供えするだけではなくてやはり電話を毎日お届けをなさる方もございます。日参が日参とはそういう事。まあだから日参的と云うても良いかも知れませんね。日参的信心が出来なきゃいけない。そして教聴、毎日おかげの泉はね、それこそ何頁でも良いから毎日読ませて頂く。教聴、そしていよいよ心行に取り組む、家業の行を行として本気で今日も結構なそれは損をするとか得をするとか、良く出来た出来ないじゃあない。その事全てが修行であると思うて今日も結構な修行をさせて頂いてと云う様な信心。日参、教聴、心行、家業の行。
 昨日は梅の実会でしたがまあ終わった後でまあこれだけは来月まで一つ何かをやらして頂こうと云う話合いを致しました。んなら合楽理念合楽理念と云うけれどもあれもこれもと漠然とは出来んからせめて子供なら子供に対してだけ今日は又は今月はね合楽理念で行こうと、勝手の御用させて頂くなら勝手の御用ことだけに限ってはもう合楽理念を水も漏らさん様に一つ実行しようじゃないかと云う様な話でした最期に。そすと来月は必ず体験発表が出来る。その事を実行してま会長の高芝さんところの長女です敏子さんが発表してましたが、もう今迄の発表じゃ今度の発表が一番良かったばいと云う様なお蔭を頂いて居る。もうこの事主人なら主人に対してだけは合楽理念を以ってと云う生き方で行っていると云う訳なんです。そこからはっきりした体験が生まれて来てるんです。これは皆さんの場合でも毎日日参でもなさる方は信心がそれだけ巧者なんですけれども、合楽理念合楽理念と云うて漠然とじゃなくて御商売するならことお客さんのことに限ってだけは、仕入れの事に限ってはだけは云う様にですね、そこに焦点を細く小さく絞ってそれでそれを合楽理念を以ってするそこから合楽理念の実験そして実証が出来る。そうするとね、もうその事だけじゃない昨日梅の実会の人の場合なんかはもう主人だけじゃない子供だけではない、ね、家庭全般の切り回しの上に合楽理念を以ってすると云う楽しみが出来て喜びが出来て来る。ね、そういう信心に取り組んで私は真の信心と云うのは分かって来るんだと思うんです。
 そういう生き方をするところに懐妊のお蔭を頂いた、その後の養生が良かった。お蔭で十月十日お蔭を頂いて無事安産のお蔭を頂いたと云うことになるんじゃないでしょうか。
 真の帯とは私はそういう事だと思うんです。真の帯をせよとこう。夕べ遅うま私は遅くにこの部屋を出て参ります。出て行こうと思うて起きておるところへ起きようとしておるところへ電話ですと云うて幹三郎が云うて来た。取らせて頂いたらまあ或所から電話が掛かって、親先生がお蔭頂いたと仰ったからお蔭頂いたと思うて居ったら、ね、病気なんです。又それが何時もよりか時間が少なかったけれどもまあ病気が起こったとこう云うのです。どうしてだろうかと云う様な感じで掛かって参りました。ねえ、だから私はその方の為にあのう山登火の句を書いてやって居りました。ね、”まっすぐな道で寂しい”と云うのである。ね、先生がお蔭頂いたと云われたけんずうっとお蔭に繋がると云うことだけでは信心には楽しみが無い。これは信心だけのことじゃぁない。人生でもそうです。もう順調でばあっかりある人生と云うものはそれは楽しみが無い。それこそ山あり河ありである。ね、そこを乗り越えてこそ初めてまあ楽しさもありゃぁ信心で云うなら有難さも又一段と有難くなると云うことなんである。ね、そしてはぁそうですかと云う様な程度でしたけれども、ほんに先日は先生お誕生お目出度うございますとこう云うからあぁ来とらじゃったのと云うたら御無礼しとりましたと。はあ親先生神様のごと云いよってから云うなら子供は云うならお蔭で受験合格お蔭を頂いて居るのだから云うならば勧学祭にも出て来てない。ね、そして親先生親先生と云いながら親先生の誕生のパーテイにも出てきていない。どうも御無礼しましたとその位の信心で私は合楽の信者と言えるだろうか。いわゆる合楽の真の信者とは云えない。それでなら自分の思い通りにならなかったらどうしてだろうかと云った様なことでは私は信心は進まん。思うてみりゃはぁほんに御無礼しとったと、子供は漢学祭にも出なかったそして自分は親先生の誕生というのにお祝いにも出らなかった。ね、これじゃお蔭が頂ける筈はないと私は分からにゃいかんと思うです。ね、
 今日は懐妊の時腹帯をするよりね、真の帯をせよと云うその云うこと。だからお互いお蔭が頂きたい。云うならお蔭が云うならば宿る訳お願いをするから。それを私共が真の帯をせないので流産に終わって居ると云うような事が沢山ありゃせんだろうかと私は思うです。ね、いやお蔭は頂いても難産と云った様なきつぅい思いをせねばなりません。お蔭を云うなら合楽する信心からそこから生み為されるお蔭、そこには合楽理念で説かれる信心が手篤う出来ていかなきゃいけない。あれもこれもと云う訳には参りませんからせめて今日はだけでも良い、ね、出来るなら今日一月今月一月ははこれで行こうと、ね、主人なら主人に対する事だけは合楽理念を以って主人に仕えよう、子供に接しようね、お客さんにだけはと云う様に焦点を絞ってそこに合楽理念の行をそこに表して行くなら必ずその実験は実を実る。実証が生まれる。昨日敏子さんが言ってましたが、もうほんとに主人にそこを絞らせて頂いたら自分でも不思議な位にお母さんにこの頃主人がちっと優しくなったとこう云うた。するとお母さんがそりゃあんたが優しゅうなったけんたいと云われましたとか言ってましたがね、主人に焦点を絞るとやはり妻として家内として優しゅうもならなければ居れんのが合楽理念なんです。ちょいとそれば取って呉れんのちゅうごたるとことは言わんで済むごとなって来る、主人捕まえてから。ね、
 私は今日は皆さんにお蔭が宿ったら必ずそれが立派にそれこそお蔭を頂いて、ね、安産のお蔭を頂かせて貰う。それにはね、真の帯をしなければならない。真の帯もせずしておいてどうしてだろうかと云った様なね、先生がお蔭頂いたと云われたけんお蔭頂いたと思いよったら又具合いが悪うなったと、ね、だからそこをです、まっすぐな道で寂しいと云うことも分からせて頂くのですからね、お蔭で信心が緩んで居った金光様が緩んで居った、ほんに月次祭にも出らなかった、誕生のお祝いにも駆けつけることが出来なかった。はぁこん位のこっちゃお蔭頂かんばいと自分で思うてお詫びする様な心にならにゃいかん。私その方の事をすぐこちらへ出て参りましたからお願いさして貰いよりました。そしたらね、あのう竹輪のね実の厚ぅい竹輪が昔有りましたがね、豆腐竹輪、それがもうあんまり実が厚いけんでもう向こうが見えんごと厚い竹輪を頂いたです。竹輪と云うのはね、あれはこうやって向こう先がが神様が蓮根喰うて下さると云った様な時に頂くお知らせです。ところが竹輪の実の方が厚うなっとるけんもう穴が細くなっとるけん向こうがめっからんごとなっている。ね、分かるでしょう。実だけはお蔭だけは一杯頂いて来て居る。そして信心がでけんもんじゃからもう神様がね自分の信心を振り返ってみることすらも分からんごとなって居る。だから神様もいわゆる蓮根喰うた下さる様なお蔭も下さらんことになって訳である。ね、分かるでしょう意味が。竹輪の実がはぁこう厚うなっとる。だから穴がこうやって向こうが見えん。様に実の方だけはお蔭頂いて居る。厚いね、そしてなら神様が望んでござる願って御座ることね、だからほんとにまあ云うならばですね、神様に蓮根喰うて貰いたいごとあるお蔭を頂きたいならこっちもです神様私に何を求めて御座るかと、ね、その求めて御座ることが分からんのです。ね、色々とヒントも与えて下さるお知らせも下さりよるけれどもそれが分からんごとなって居る。だから神様の方からも蓮根喰うて下さる様なお蔭がもうお蔭を頂き過ぎて居る。実が厚うなり過ぎて居る。
 今度の誕生に秋永先生が前の日にお夢を頂いた。何とか大納言ちゅう人の書きなさったか作りなさったかと云うその物を親先生の誕生のお祝いにしようと云う様なお夢を頂いた。ところが実際有ることはあったげなけども手が出る様な金額ではなかった。それでせめてと云うてあの花台をま大納言が作りなさったと思うてそれを親先生のお誕生のお祝いにとこう云うのである。神様が信徒会長に云うなら誕生のお祝いを求めて御座る。としか言えんじゃないですか。何故求めなさるのでしょうか。ね、お前の求めにも応じてやりたい。為には先ず神の願いも聞いて呉れと云うことじゃないでしょうか。ね、私共先ずお蔭を頂く為にはです、ね、神様が私に何を求めて御座るかと云うことを分かってね、それを私は捧げて行くと云うか尽くして行くと云うか、そういう信心にならして頂くと云うことが先ず先決なんです。ね、それは神様が又お前の云うて居ることやら思うて居ることやらに蓮根喰うてやりたいと云う願いがあるからなんです。ね、神様の求めに応じる、神様も又氏子の願いに応じて下さる。そこに交流がある。ね、私は今日はそういう形の上のことですけれどもね、そういう真も表す事も出来ずそういう真の信心にもならずしてどうして流産したじゃろうかと云う様なことは言えないと思う。ね、
 懐妊の時にね腹帯をするよりね信心の帯云うなら真の帯をせよと。そこで私はどの程度に真を実際の上に表して居るだろうかと。先ず合楽の信者とこう自分は思うて居るが合楽の真の信者として自分は言えるだろうか。いや自分な信徒会の会費も納めて居らん、これじゃもう第一合楽の信徒と言えんじゃないか。ね、婦人会にもかたって居らん、壮年部にも入っていない。ね、まそういところから先ずいわば合楽の信心を頂いて居る信者と自分は思うとるけれども神様は合楽の真の本当の信者とは思うて御座らんかも分からん。ありゃ時々頼む時だけ来るだけと云う様なことになって居られるのかも分からん。出来んことはないでしょうが、簡単なことでしょうが。
日参、教聴なんかでもいっちょん難しいことはないです。お参り出来ん時にはお参りした積もりでお初穂すればそれでいいとでしょうが。ね、おかげの泉だけは云うならばです例えば合楽で云われる五つの願い、ね、その五つの願いのこれはもう絶対御神前に向かった時には合楽の信者なら必ず唱えて居ることです。となっとかなきゃいけnです。ね、大祓信行これはもう絶対合楽の信者ならば大祓信行が出来て居らなければもうほんとの合楽の信者とは言えんです。これは合楽の芯の様に云われとるのですから。大祓信行は絶対ばい、ね、もう御神前に向かうたからには五つの願い必ず言わにゃいかんばい、唱えにゃいかんばい、ね、これは自分自身の信心の上に。ね、ならこりゃ少し公のなら合楽の教会の信者でございますと云うためには云うならば信徒会費も納めとる婦人会費も納めとる。合楽の何かという行事の時には必ず出させて頂きよる。日参は出来んけれども何何の会合と云う時には絶対お参りをして居ると云うとこまで位はね、いっとかなければ私は合楽の真の信者とは云えないと思う。 今日はそういう形の上からです先ず自分の真を検討して於かなければいけないと云った様な事を聞いて頂きましたですね。どうぞ。